花丘明希子がプロジェクターを操作すると、背後のスクリーンに小冊子の映像が現れた。
「これが轟屋から依頼のあったガイドブックです」
明希子の手にはスクリーンの映像とおなじ冊子の実物がある。かなり厚みのあるページを、明希子は一同に向けてぱらぱらとめくってみせた。しかし、それは束見本で、なかは白ばかりがつづいていた。
「轟屋の得意先五千軒の飲食店を紹介するガイドブックを、わがダイ通に制作せよとの依頼です」
明希子は言って、ダイコク通信社第一営業局第三営業部のスタッフ一堂を見渡した。第三営業部副部長というのが明希子のポジションだ。実際に現場を取り仕切るのは部長ではなく副部長である自分だ。
広告代理店、ダイ通のミーティングルームには、テレビ局や映画会社と制作提携しているアニメーション・キャラクターのフィギュアやぬいぐるみがならび、劇場公開されている時代劇のポスターが貼られている。
「さきほども言いましたが、洋酒メーカーは、自社のボトルをお店の酒棚に並べてもらうためならなんでもします。今回の取材先の店舗は、どこも轟屋の営業マンが何度も足を運んで、ボトルを置いてもらうようになった上得意ばかりです。それに、焼酎に押されて“洋酒の轟屋”としては苦しいのが現状です」
明希子はプロジェクターを操作し、轟屋の年間売り上げ高の推移をスクリーンに映し出した。
「今回のガイドブックの取材は、轟屋の得意先への挨拶まわりを兼ねたものです」
定刻通りにミーティングが終了すると、明希子は部下の佐々木理恵を呼び止めた。
「あなた、これ、中心になってやってみる?」
明希子の言葉に、理恵の表情がぱっと輝いた。
「は、はい」
二十九歳の明希子より理恵は二年後輩だ。彼女にとってこれは飛躍のチャンスになる仕事だろう。
「よろしい。じゃ、今夜、時間あけといて。轟屋のお偉方に紹介するから。赤坂あたりで、ホルモンのおいしい焼肉屋さんをさがして予約しといてくれる? 好きなんだ、向こうの部長が」
「わかりました。でも、アッコさん……あ、副部長……」
「アッコでいいよ」
明希子は笑った。
「アッコさん、だいじょうぶでしょうか、わたしで? つとまりますか?」
「ねえ、理恵ちゃん、マーケティングマネージャーにとっていちばんたいせつなものはなんだと思う?」
「やはり人望ではないでしょうか? 多くのひとびとのサポートを受けることは、そのひとが人材として優れている証だと思います」
「それはまちがいじゃないよ。でも、やや古い考えね。マーケティングマネージャーにとっていちばんたいせつなものは判断と運よ。そして、そのチャンスを理恵ちゃんはつかんだわけ。ね、いっしょにがんばろう」
その夜、轟屋の部長を接待した後、明希子は理恵と二人でならんで外堀通りを歩いていた。日枝神社のうえに夏の終わりの月が浮かんでいる。
「轟屋の部長、あなたのこと、じとっと見てたね」
「ひゃ」
「ま、気に入られたってことなんだからいいんじゃない」
そう言ってから明希子は理恵の顔を見た。
「全国五千軒もの飲食店を一挙に紹介するガイドブックはかつて前例がないの。そうして、わたしたちがそれをやる」
そのとき、明希子のケイタイが鳴った。
「ちょっとゴメン」
ショルダーバッグから電話を取り出す。
「もしもし」
「あ、アッコちゃん」
母、静江の声だった。
「すぐきて、お父さんがたいへんなの」