経営者の軌跡

株式会社 サイベックコーポレーション 顧問 平林 健吾

株式会社 サイベックコーポレーション 顧問 平林 健吾

工業高校からシチズンへ

平林健吾氏が独立したのは1973年。折しも第一次オイルショックが世界を席捲し、日本経済も低迷したその最中のことである。

平林氏は、1944年、長野県松本市に6人兄弟の5番目として生を受けた。幼い頃から父親の行商を手伝い、山の木の手入れや田植え、稲刈りも行なって家業を支えた。高校は、就職に有利な松本工業高校に進学。学生時代は、特に数学や物理の成績がよかったという。

高校卒業後は、シチズン時計(現シチズンホールディングス)に入社。当時のシチズンは東京都田無市(現西東京市)近隣の学生しか採用しなかったのだが、平林氏の兄の信一郎氏がシチズンに勤めていたことによる信頼からか受験がかない、入社することになった。なお、信一郎氏は、その後シチズン時計の常務取締役田無製造所所長にまでなっている。

シチズン時計では、1970年にCNC自動旋盤の「シンコム」を開発。それにより平林氏は、切削加工やマシン導入による自動化の提案営業に携わることになった。このときの経験が、起業後おおいに活かされることは想像に難くない。

東京での8年は、仕事の楽しさに加え、高度成長期のため給料も右肩上がりで、それを全部同僚と飲んでしまうという豪放な日々だった。しかし、「ある日、こんな生活では、金も貯まらなければ、結婚もできないと気づいて、地元に帰ろうと思ったんです」帰って来た時、手元にあったのはスーツ2着とテレビだけだったそうだ。

プレス加工との出会い

地元に戻った後は、長野県塩尻市にあった金属メーカーに就職した。ここで、プレス加工や金型と出会うことになる。プレス加工は、金型さえあれば、ボタンを押すと自動で部品ができる。切削加工に比べて切りくずは出ないし、量産も容易だ。そして金属加工で最も生産コストが安い。

しかし、会社の社長は昔かたぎの職人で、平林氏の機械加工とは考え方が合わない。結局2年半勤めて退職し、独立することになった。1973年、平林氏が29歳のことである。

独立するとの話を聞きつけた長野県諏訪市のあるジグ製造工場から声がかかり、平林氏は代表に就任することになった。この会社には多額の借金があったが、それも承知の上だった。

社名は信友工業と名付けた。「信ずる友」と信州の「信」、そして「お客さま」と「社員」「友」との信頼関係は会社経営で最も大切な絆という思いを込めた。

新しい会社では、プレス加工を事業の柱にしようと考えていた。ちょうどラジカセが市場に登場した時期で、中の装置の賃加工を請け負った。

しかし、下請けでは、1ついくらの世界から抜け出すことはできない。いずれ時代が変わって受注量が減れば減収に繋がるし、価格競争にも巻き込まれるだろう。先は見えている。そして、独立から5~6年経ってから金型製作への挑戦が始まった。

「型こそすべて」を極める

当時はちょうどワイヤカット放電加工機の出始めの時期で、1台あたり2000万円もした。金型は前職で見たことはあったが、順送型は初の挑戦だ。それまでは単発しかなかったので、何百台も繋げて加工していたが、順送型であれば、機械の台数も少なくて済む。

そうはいっても、当時の年商は800万円程度。それで2000万円の機械に手が届くわけがない。長野県の中小企業向け融資を受けるために商工課の窓口に行くと、なんとそこにいたのは高校の同級生だった。平林氏の熱意を知った同級生は、事業計画や資金計画の書類の体裁を整えるのを手伝ってくれ、役所の複雑な手続きも引き受けてくれた。こうしてなんとか融資を受け、三菱電機のワイヤカット放電加工機を購入することができた。

機械を買ったら、今度はそれを遊ばせておくわけにはいかない。当時のワイヤカットには自動結線機能がなく、ワイヤが切れたらそこでストップしてしまう。家との往復の時間も惜しみ、夜、機械の隣で寝泊まりして機械を休みなく動かし続け、1カ月で650時間稼働させた。「当時、私以上に機械を動かした人はいないでしょう」平林氏のこうした努力の結果、売上高は約5倍の4000万円となり、機械購入の借金も5年で返済することができた。

金型の研究には、約3年かかった。当時、教科書も教えてくれる人もいないなかでの試行錯誤だ。これまで考えてきた金型の改良案をすべて盛り込み、「型こそすべて」と、創意工夫を重ねた。次第に、順送金型ができるという噂が広がり、ラジカセからカーラジオ、時計やカメラの部品へと顧客が広がって行った。

金型の新たな境地を拓く

サイベックが得意とするプレスだけで板厚を変える技術の第一号は、CDやDVDなどで読み取る部分に使われる光ピックアップの部品加工で実現された。それまで光ピックアップ部品は板厚の違う形状のため焼結していたが、プレスだけで整形可能となったため、1部品あたりのコストが半額となり、メーカー側はその部品で年間2億円のコストダウンに繋がった。それにより、メーカーで担当していた設計者はこの年に社長賞を受賞したという。

こうした高付加価値のある技術を生み出せた理由を聞いたところ、平林氏はにっこりと笑いながら「鉄板は硬いと思っているでしょう。そうじゃなくて、鉄板は柔らかいと、発想を変えるんだよ」と、その秘訣の一端を教えてくれた。

1990年に、人財の確保のため現在の塩尻市アルプス工業団地へ全面移転し、翌91年には社名をサイベックコーポレーションに変更した。社名には「価値ある技術を提供する」という思いが込められ、いまに続いている。

1996年には、自動車部品への業種転換を目指してプレス工場を拡張。そして、プス機メーカーと、プレス機の共同開発に取り組み始めた。シングルリンクモーションプレス機、フィットモーションリンクプレス機、超々高剛性・超々精密サーボプレス機など数々の共同開発に成功した。

2002年には、アイシン精機と冷鍛順送型技術供与契約を締結。第2回ものづくり日本大賞「優秀賞」(2007年)をはじめとする数々の受賞歴がある。

現在は、車の部品加工が事業の柱となっているが、徐々にロボットの減速機も増えて来ているという。ロボットの関節に組み込まれる減速機は小さく、精度も求められる。他社では切削で仕上げるところを、サイベックではプレスだけで成形する。

また、新しい事業として、再生医療の分野にも挑戦している。インプラントをプレスで加工すると聞いてイメージができるだろうか。液体状の素材を熱して加圧することにより成形するというのだが、ここでも素材の見かけの柔らかさに惑わされることなく、打ち抜いていく。

平林氏は2009年4月に引退し、その後代表権はなく取締役でもない。技術顧問として会社と関わり、経営は社長の巧造氏と常務の正貴氏に任せている。2012年に稼働した地下工場の「夢工場」も、アイデアを出したりはしたが、資金の調達からすべてを社長に任せた。「会社は、継続して行くことが大切。それは社員のためであるばかりか、社員の家族や地域貢献のため」というサイベックの経営理念は引き継がれ、いま、ますます広がりを見せている。

金型の頂点を極めた平林氏にこれから何がしたいかと尋ねたところ、「苦労をかけたので、妻と旅行ですかね」と、少しはにかみながら答えてくれた。


株式会社 サイベックコーポレーション 顧問 平林 健吾地下工場

株式会社サイベックコーポレーション

所在地

〒399-0704 長野県塩尻市広丘郷原南原1000-15

TEL

0263-51-1800

WEB

http://www.syvec.co.jp

創立

1973年

社員数

83名

株式会社 サイベックコーポレーション 顧問 平林 健吾 厚板サイクロイドギヤ

株式会社 サイベックコーポレーション 顧問 平林 健吾 技術の粋がつまった金型

株式会社 サイベックコーポレーション 顧問 平林 健吾 81年に購入した2台目は
2006年3月まで四半世紀も活躍

新規会員登録