kataya

第八章:削り

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「これが2級技能検定の受験申請書だ」
宮下が事務所の古い木の机の上に、ピンクの紙を置いた。
「そして、こっちが技能五輪東京都予選参加申込書になる」
今度は黄色の用紙を置いた。
宮下の隣で拳磨は立ったままそれを見下ろしていた。
机の前の回転椅子に鬼頭だけが座っていて、薄ら笑いを浮かべている。机と同様に椅子のほうも相当にくたびれていて、寄り掛かっている背もたれが、キイキイ泣き声を立てた。
「この両方を書いて出すわけですか?」
拳磨はピンクと黄色二種類の書類を取り上げた。どちらもA3二つ折りだった。
「いいや。おまえは2級技能検定の願書だけ書けばいい。会社のほうで、その――」
と宮下が、黄色い技能五輪東京都予選参加申込書の〔国際職業訓練競技大会へ参加させたいので上記の者を推薦します。〕という部分を指さして、
「――所属事業所の推薦欄を記入して添付する」
「この黄色い用紙を見ると、2級技能検定を受けずに、技能五輪の予選だけ申し込むこともできるってことですね?」
宮下が頷いた。
「2級検定を受験するには最低二年間の実務経験が必要だ。おまえはこの五月でウチにきて丸二年になった。それで受験資格に達したってわけだ。実務経験が二年未満で、なおかつ技能五輪東京予選に参加したい者がこの黄色い用紙で申し込む」
そういうことか、と拳磨は思った。
「予選会を兼ねた2級実技試験は、七、八月の二ヶ月の間に行われる。吾嬬町にある鬼頭精機に所属するおまえは、城東ブロックだから七月中旬、場所は江戸川区にある城東職業能力開発センターだ」
「七月中旬――」
いよいよだな。
「筆記試験は九月一日に全国一斉に行われる」
それを聞いて拳磨は泡を食った。
「ちょ、ちょっと待ってください、ミヤさん。筆記があんですか?」
宮下がしらっとした顔で、
「言ってなかったか?」
「聞いてませんよ!」
「そうだったかな」
となおもすっとぼける。そうして、
「んじゃ、これ持ってって、勉強しろ。過去(カコ)問(モン)だ」
机の上に問題集をどさりと置いた。
今さら受験勉強とは、とほほ……だぜ。
「どうした? それほどペーパーテストに自信がないのか? おまえ、仮にも歯科大まで進んだわけだろ?」
「勉強が嫌いだから、大学やめたんでしょうが」
すると拳磨の中で思いつくことがあった。
「技能五輪の予選は実技試験だけが対象になるわけですよね? これまで筆記に落第して、技能五輪全国大会に選出されたヤツっていないんですか?」
そこで鬼頭が口を開いた。
「俺もそれを主催者に問い合わせてみたんだ。だが、そんな面白いヤツはおらんかった」
拳磨はがくりとして、
「じゃあ、2級検定を受験しないで、黄色い五輪の東京都予選のほうで参加申し込みするっていうんでは?」
小声で提案する。
「ダメだ」
鬼頭が一蹴した。
「なにも算数や英語のテストを受けろっちゅうわけじゃねえ。旋盤の試験だ。普段ちゃんとした仕事をしてれば、できる問題のはずだ。それにな、2級検定合格は予選を勝ち抜く最低課題だ」
「そうだ」
と宮下が後を受けた。
「2級検定の作業試験は、内外径削り、テーパ削り、ねじ切りなどさまざまな要素が含まれた部品二個の加工を行い、これを組み付ける。東京予選のみ参加する者にも同じ作業が課される。指定公差は図面の数字からマイナス〇・〇一からマイナス〇・〇四。しかし、五輪に出ようっていう連中だ、みんなこの寸法内に入れて来るはずだ。標準作業時間三時間の中で、少しでも精度の高い削りを行った者が、東京代表として全国大会に選出されることになる」
「ただ2級合格すれば全国大会に出られるってことじゃないんですね」
「東京都予選を兼ねた2級検定合格者の中から全国大会で戦えるレベルの優秀な成績を収め、なおかつ参加希望する者が選出される」
「その人数っていうのは?」
「東京都のワクは毎年一名だ」
「ええっ! たった一人?!」
「言ってなかったか?」
再び宮下がしらっとした顔をする。
「聞いてません!!」

2級技能検定の作業試験三日前。朝のトレーニングから戻り、アパートの共同洗面所に行くと、室田が顔を洗っていた。
「おまえでも面(ツラ)洗うことがあるんだな」
「あ、剣、ひでえこと言うじゃねえか。検定直前でイラついてるからって、八つ当たりすんなよな。筆記の勉強はしてんのか、受験生? ヒヒ」
学科試験は〇×の真偽法と四択問題それぞれ二十五問がマークシート方式で出題される。
「“鋼の切削に適している超硬チップの材質の種類は?”とか“旋盤のベッド上の振りはなにで表すか?”とかって、改めて訊かれると、分かんねえもんだよな。現場じゃ無意識にやってることだからよ」
薄いベニヤドアの向こうからケイタイの着信音が聞こえた。
室田が拳磨を見て、
「おまえんとこじゃないのか?」
拳磨は廊下のはす向かいの自分の部屋のドアを開け、畳の上で鳴っているケイタイを拾い上げた。
「もしもし」
「剣さんですか?」
女の声がした。
「そうですが」
「朝早くから失礼します。緊急のことなので、何度も電話をしてしまいました」
「あ、いや、俺のほうもケイタイ置いて外にいたもんだから……」
訳が分からないながらもそう言っていた。そして、相手が伝えてきた用件に思わず声を上げた。
「ええっ?!」
「とにかく、ご本人が連絡する相手がいるとしたら、あなたしかいないということなので」
女の話し方はあくまで冷静だった。きっと拳磨を動揺させまいとしているのだろう。
「分かりました。急いでそちらに伺います」
電話を切ると、室田に向かって言った。
「サヨが倒れた。これから福島に行く」
「これからって、おまえ、仕事どうすんだよ?」
「社長に今日は休むって言っといてくれ」
汗だくのランニングシャツとトレパンを脱ぎ捨てながら言う。
「検定は? 検定はどうすんだ?」
「それまでには戻る」
いつもは洗面所で蛇口の水をかぶり、タオルを絞って身体を拭くのだが、そんな時間はない。汗臭せえかなと思ったが、Tシャツとジーンズに着替え、部屋を飛び出した。
電話はサヨが通っている産婦人科病院からだった。未明にサヨが救急車で担ぎ込まれたらしい。セッパクリュウザンの危険があるという。流産は分かるけどセッパクってなんだ? 歯科大では解剖の実習もあったが、産婦人科の授業はなかった。
それにしても、どうして俺んとこに連絡してきたんだよ? 吾朗は? アイツはなにしてんだ?

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