kataya

第四章:ねじ切り

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拳磨が工場に戻ると、社長がまた一人でなにかやっていた。どうやらいつもの“対話”が始まったようだ。
「なんだ、帰ったんじゃなかったのか?」
拳磨はちょこんと頭を下げると、更衣室に行って作業服に着替え、再びグラインダーの前に立った。
「今日は早く退けたから、大方こないだの女の子とデートなんだろうと思ったのによ」
それには応えず、溝入れバイトを研ぎ始める。
「誤解だって。間違った自分のイメージに、無理やり俺のことを入れて見てるだけだって」さっき美咲に向かってそう言った時、あるイメージが目の前を閃光のように走り抜けた。
高速回転する砥石車にバイトを当てると火花が飛び散った。熱を持った刃先を水につける。ジュッと短く音がして、水蒸気が立ち昇った。心が躍っていた。ここ数日、まるで頭を鷲掴みにされ押さえつけられているようだったあのこと。溝入れのむしれた壁をきれいにできるんじゃないかという期待からだ。
刃先を主軸の中心点に合わせるように取り付けた。そしてまた、コマの軸の部分に五ミリの溝入れを施すために旋盤を回す。真っ直ぐに立てた突切り形状のバイトが鉄材に当たると、かすかな焦げるようなにおいがした。拳磨は油筆を当てる。これまで何百回と繰り返してきた動作だ。そして、これまでどうしてもうまくいかなかったことだ。やっている動きは変わらない。だが、今度はうまくいくかもしれない。なぜなら、なぜなら……
旋盤を止めると、拳磨は削ったばかりの溝に指先を差し入れた。思わず小さく息をついていた。
「できたのか」
傍らに立った鬼頭が言った。
拳磨の指の腹で、溝の壁はどこまでもなめらかだった。
間違った自分のイメージで、無理やり刃物を入れていた。真っ直ぐな溝を削るには、刃先も刃横もすべてが真っ直ぐな刃物が必要だと思っていたのだ。だからバイトの刃は、前も横も一直線に研ぎ上げてきた。
しかし、その思い込みが溝の壁をギタギタにしていたのだった。
今さっき拳磨は、グラインダーで刃の両サイドを削った。先端部から柄に行くほど刃幅を狭くしたのだった。
「これが“横逃げ”だ」
鬼頭が言った。
「横逃げ……」
拳磨は虚ろにそう繰り返した。
「“横逃がし”とか“バックテーパー”っていうヤツもいる。刃の先端部を頂点に、柄に向けて細くなるように刃横を斜めに砥ぎ上げる。両側が均等な切れ味でないと溝壁が傾き、角度が弱いと仕上がりが悪い」
そうだったのか……
「なあ剣、おまえ、歯科大に通ってた時は市販されてる刃物で削ってたんだろ。そっちの世界じゃなんてったっけ、えーっと……」
「タービン、ですか?」
「おお、そうだ。そのタービンでよ。あのダイヤモンド粒子の付いた軸で削ってたわけだ。歯医者の先生がよ、白衣着てグラインダーで刃物を研ぐ姿なんて想像できないわな」
鬼頭がニカッと笑った。
「旋盤は自分で刃物を作らにゃならん」
「自分で……作る」
「わかるか? これは旋盤の本質だ」
「歯科形成と旋盤の削りは、まったく別ってことですか?!」
思わず大きな声を出していた。
鬼頭が深く頷いた。
「いいか、主役は“刃物”と“素材”だ。職人なんて脇役、いや、演出家かもしれん」
自分でもうまいたとえだと思ったのだろう、今度は鬼頭がどや顔で、満足そうにまた何度か頷いていた。
拳磨の中で、それまで持っていた削りの自信が粉々に砕け散っていた。
俺は……最初から完璧な刃物を持たされてた俺は、自分を主役だと思ってたんだ……道具も自分で作れず、削りをなにも知らない勘違い野郎だったんだ……
拳磨は恥ずかしかった。恥ずかしくて、この場から走り去って消えてしまいたかった。
跡を継ぐのを嫌って家を出てきたはずなのに、旋盤がうまくいかなくなってみると、「親子三代の歯科医のDNA」なんて絵理奈のなにげない一言にすがりついて自信を取り戻そうとしてた。しかし、その自信を持ってた削りの腕は、そもそもまったくここでは役に立たなかったってわけだ。

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