素顔

沢根スプリング株式会社 代表取締役社長 沢根 孝佳

沢根スプリング株式会社 代表取締役社長 沢根 孝佳

自分が成長できる、人の役に立つ――それが仕事から得られる幸福感

ヤスリ屋からばね屋へ

1200ccの大型バイクは素晴らしい安定性で、なめらかにハイウエーを走る。左手は遠州灘、右手は浜名湖だ。沢根スプリング株式会社代表取締役・沢根孝佳は、思い立ってはひとりで、あるいは仲間とツーリングを楽しむ。そして年に一度、妻を愛車の後ろに乗せ、二泊三日の旅に出る。昨年は東北の東日本大震災の被災地を回った。

沢根がオートバイに親しむようになった のは、高校の終わりくらいだ。父、好孝(よしたか)の影響を受けてのことだ。バイク好きは一家そろってだ。大型バイクの隣にいる若い父、50ccと一緒の母と妹、沢根と弟もそれぞれが愛車と並ぶ一家総出のモノクロ写真がある。

沢根スプリングの根源は父が親族と創業したヤスリ屋である。それが、やがてばね屋へと転じた。ヤスリもばねも金属であり、熱処理するところに共通項があった。

「ヤスリを近くの工場に納めに行くと、高級自動車で出入りしているのがばね屋というわけですよ。きっと儲かるに違いないとばね屋になったわけです」と沢根は、父から聞いた冗談とも本当とも取れる話を口伝えする。

やがて好孝は独立し、1966年に沢根スプリングを起こした。

オフコンの走りの時代

バイクに乗るようになったのは高校の終わりくらい、と先述したが、子ども時代の沢根は特に熱中するものもなく、スポーツも嫌いなほうであった。

高校卒業後は都立の工業短大に進学。 創業したばかりの家業をおもんぱかっての進路選択であった。「カネもない、人もいない、設備もないという状況でしたからね。負担がかからないように、学費の安い学校を選びました。なにしろ、当時の月謝が2千円でしたから」

受験したのはその短大だけ。「もしも落っこちたら、どうしたんだろうね?」と茶目っけを含んだ表情で笑う。

賄(まかない)付きの四畳ひと間の下宿住まいであったが、学生生活は楽しかった。サークルはコンピューター研究会に所属。「“会”っていっても“飲み会”の“会”のほうがもっぱらだったんだけど」

一方で、家業を継ぐという心構えだけはいつの間にかできていた。継ぐ継がないの話を好孝としたことはなかった。けれど、幼い頃から、ばね屋の父のトラックの助手席に乗り、あちこち納品や営業にいったりして、自分も将来こういうことをやるものだと自然と思うようになっていた。

短大卒業後は、後学のために大手電機メーカーに就職。オフコンの走りの時代であった。沢根は営業企画部に所属し、展示会で衆目の中、計算機をオフコンに変えるようPRした。オフコンとはこういうものであり、事務処理が飛躍的に高くなることを紹介する。そして、なにより沢根自身がオフコンの重要性を学んでいた。

アメリカ武者修行

メーカーに4年間勤めたのち、父から自動車部品メーカーに行くよう告げられた。ばねの売り上げの8割は自動車産業であった。その現場で学んでこいというのだ。

沢根は家業の会社がばねを納入する九州の部品メーカーに8ヶ月ほど在籍。鋳造、プレス、溶接、メッキ、塗装、組み立て、さらには部品購買も含めたすべての部門で学んだ。

いよいよ沢根スプリングに入社するものと思っていたところが、次に父に命じられたのはアメリカ行きであった。

自動車産業の本場アメリカで、ばねを見てこいとのお達しだ。

とはいえ、沢根は英語はからっきしだ。まずはそれを学ぶところから始めなくてはならない。カリフォルニア州ロサンゼルスの西方、サンタモニカの語学学校に入学することになった。「桜田淳子が『サンタモニカの風』なんて歌を歌ってましてね。いったいどんなところなんだろうって思いましたが、不安ばかりでした」

なにより父は苦労することを経験させたかったのだろう。住むところも自分で探さねばならなかった。

ところが行ってみると、手配していたはずの家に住むことができず、語学学校で知り合った中国系パナマ人とシェアしてモーテルで当分の間過ごさねばならなかった。

だが、何ヵ月かのちには、順応性の高い沢根は全米のばね屋に向けて、自分が日本のばね屋の息子であること、見学に行っていいかを問う手紙を送るまでになっていた。イエスという応えがあった相手先には、調達した中古車で向かう。アメリカでの自動車免許も取得していた。

訪問した先では泊まっていけ、食事をしていけとよくしてもらった。沢根が興味を持ったのは、ボストンのばね屋のメールオーダーシステムだった。郵便、電話、ファクスで受け付けるばねのカタログ通販である。

日本と違って、アメリカでは芝刈り機などメーカー任せでなく自分でメンテナンスする。市民が生活道具を使いやすくカスタマイズするためのばねを青空市場で並べて売っている光景が見かけられるのだ。この経験は、のちのばねとモノづくりの通信販売会社、サミニ株式会社への展開に繋がる。

視察ツアーは2年に及ぶ予定だった。ところが、沢根スプリングの工場長が体調を崩してしまった。

沢根は急遽呼び戻されることとなったのである。

イメージカラーは黄色

入社した沢根がまず驚いたのは不良品が多いことと、納期の遅れであった。自分が籍を置いた九州の自動車部品メーカーに納入するわけだから、こっぴどく叱られる。

宅配便がない時代で、返品と納品のエア便のために小牧空港まで何度足を運んだことだろうか。すべては仕事を職人単位に任せていたためだった。

電機メーカーでオフコンの優位性を学んでいた沢根は、業務のOA化を推進した。現場の反発はあったが、これを行わない限り改善はない。OAによる品質管理の仕組みやルールづくりは町工場の世界では早いほうだった。ISOもいち早く導入している。「新しもの好きなんだね。いいこと、悪いことはともかく、目新しいものにすぐに飛びついちゃう」

客先を担当しつつ、工場全体を見渡す、そんな忙しい時代が続いた。

90年、好孝が社の定年である60歳まで数ヵ月を残して社長を退いた。それは、自らが残した〔1回だけの限られた人生であり、その人生を大切にする。〕という経営理念を実践するものでもあった。

「お互い1度きりの人生なのだから豊かに生きてほしい――先代はよく社員らに向けて言っていました」

その好孝は60歳からゴルフを始めた。87歳の今はコースには出なくなったが、打ちっぱなしは続けている。

現在62歳の沢根の人生を豊かにするものはなにか。父が65歳まで乗った大型バイクに跨りながら、いつまで乗り続けるだろうと考える。

ランニングを始めたのは2000年からだ。シドニーオリンピックのテレビ中継で、高橋尚子選手がマラソンで金メダルを獲得。ゴール後のインタビューで「すごく楽しい42.195キロでした」と語ったのが耳に残っていた。すると当時、週に3~4回通っていたジムのインストラクターに「ランニングをしませんか?」と誘われた。それで、同じジムに通う数人と走ろう会を結成。最初は3キロ走るのに「ゼーゼー、ハーハー」していたが、やがて10キロ、ハーフのマラソン大会に出場。翌年、ホノルルで初のフルマラソンに挑戦した。「練習し過ぎて、アキレス腱を痛めてしまったんです。完走できるか不安でしたが出場しました」

途中、痛みが出て歩いたり走ったりしたが、ゴールが近づくと気持ちが高揚し、最後は力を振り絞るように走り抜いた。タイムは5時間36分。やり遂げた感動で身体が震えた。「苦しいけど、また走りたい。ああ、マラソンとはこういうものか。高橋選手(Q ちゃん)の言葉の意味が分かりました」

社員文集『やらまいか(遠州言葉で「さあ、一緒にやろうじゃないか」の意)』は今年5月の創立記念日に発行する号で32号目になる。そこには、たとえ数行でもいいから社員らに今年の目標を書かせている。自分の目標を明確にすること、それが人生を豊かにする。

社のイメージカラーは黄色。黄色は映画『幸福の黄色いハンカチ』に象徴されるハッピーカラーである。そして、「自分が成長していくこと、人の役に立つことが、仕事をとおして得られる幸福感である」とも。また、信号の黄色は注意を促す。「暴走してはいけないのは、経営も同じなんです」


取材・文=上野 歩


沢根スプリング株式会社 代表取締役社長 沢根 孝佳

沢根スプリング株式会社

所在地

〒432-8523 静岡県浜松市南区小沢渡町1356

TEL

053-447-3451

FAX

053-448-8298

URL

http://www.sawane.co.jp/

創業

昭和41 年

従業員

51名

お問い合わせ

村松 正登

主要三品目

・各種バネ製造(圧縮ばね、引張ばね、ねじりばね、線加工品、うす板ばね)
・標準ばねの「ストックスプリング」
・線加工品

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