明希子は、部下の理恵を連れてタクシーに乗っていた。
轟屋のガイドブックについて、五千軒の取材スタッフを、明希子は編集プロダクションに外注するつもりはなかった。今回の取材が得意先の挨拶まわりという目的なら、編集職に従事するようなとかく職人的で愛嬌の足りない人間よりも、営業のプロをつかおうと思ったのだ。取材項目をマニュアル化し、アンケート形式にすれば素人記者でもなんとか対応できるはずだ。明希子は販促会社のスタッフをつかうつもりだった。それで、ふだん飲料水や冷凍食品のキャンペーンで取り引きのあるセールスプロモーションの会社をまわって当たりをつけることにした。
「ワルい、理恵ちゃん、ちょっとつき合ってくれる」
三社めをまわったあとで、タクシーは荒川を越え、吾嬬町近くを走っていた。明希子は、ふと花丘製作所に寄ってみる気になった。
「ここがアッコさんのご実家が経営している会社なんですか」
理恵が興味深そうに言った。
タクシーが乗りつけたのは、吾嬬町界隈でも比較的敷地の広い工場だった。
「あれ!?」
明希子は思わず驚きの声を上げていた。スレート葺きの古く汚れた建屋が、明希子の記憶のなかにあった工場だった。それがきれいに建て替えられていた。
――そういえば、まえに改築するって言ってたかな……。
ここから歩いて十分ほどのところにある実家には、年に数回顔を出すことはあっても、工場にまではくることはなかった。
「なにをつくってる工場なんですか?」
理恵にきかれ、
「金型」
と明希子はこたえた。
「カナガタ?」
「そう。理恵ちゃん、鯛焼き好き?」
「あっ、甘いもの大好きでーす」
明希子は微笑んで、
「鯛の形をした型に、溶いた小麦粉と餡を入れて焼くと鯛焼きになるでしょ、あれとおなじ要領。溶かした金属を流し込んでケイタイの部品や自動車の部品をつくる型を、この工場では製造しているの」
「へー」
その時、
「ちわっス」
鉄板を運んでいる作業着姿の筋肉の塊のような社員に声をかけられ、理恵がびくりとした。
「あ、土門君、久し振り」
そう言葉を返しながら、理恵が驚くのも無理ないなと明希子は思った。土門は強面である。しかし、その風貌とは裏腹に、物静かでやさしい青年だ。明希子とは同年齢で、自分が高校生のころから花丘製作所に勤めている。
工場のドアを開けると、明希子はふたたび驚いた。体育館のような広い空間に、大小の工作機械が整然とならび、稼動している。それは、油と喧騒に包まれた、かつての工場の風景とまったくちがっていた。
「これって……」
明希子は軽い衝撃をおぼえていた。
子どものころの自分は、油にまみれて働き、近所に騒音を撒き散らす家業の工場を、心のどこかで恥じているようなところがあった。だからここにも自然と足を向けなくなったのかもしれない。しかし、花丘製作所は、いつの間にか、こんなにもかわっていた。
明希子は呆然と歩いてた。すると、工場の一角に、あきらかにほかとは異なる場所を見つけた。そこには旋盤やフライス、ボール盤、その他明希子には名前のわからない工作具とともに古い作業机が置かれていた。それは誠一の机だった。明希子にはその机に向かい、寡黙に作業に取り組む父の後ろ姿が見えた。
どうやらここは誠一の作業場らしかった。この場所だけは、懐かしい機械油のにおいがした。
EMIDAS magazine Vol.11 2006 掲載
※ この作品はフィクションであり、登場する人物、機関、団体等は、実在のものとは関係ありません