翌朝はしとしとと雨が降っていた。明希子はホテルの窓からリトルトーキョーの街並みを見下ろしていた。〔しあわせカラオケ SINJUKU〕〔相撲茶屋 関取〕〔らーめんハウス SINSUKE〕といった日本語の看板を掲げた店舗が並んでいる。治安がよい地区ということで、伊澄が手配してくれたホテルだった。
濡れそぼる町を、人々が傘をさしたり、ささなかったり、鞄やタオルを頭にのせたりして歩いている。雨期ではないというが、こうした雨が幾度か降ってはやんだ。
午前8時にきのうとおなじ白いセダンがホテルの前に乗りつけられた。
明希子が出てゆくと、後部座席からひとりの女性が降り立った。
「ローズマリー・アンドリオンよ。みんなローズと呼ぶわ」
ローズは40代半ばくらいの大柄な女性で、美しい英語を話した。ISPCの取締役だという。
明希子はローズの隣に乗った。
「朝食は?」
「すませました」
明希子がホテルのラウンジで食べたのは、コンチネンタルブレックファストと称する蜂蜜のかかったハムと目玉焼きがのったトーストとバナナだった。
「こちらの料理は甘いでしょう。だから、わたしはこんなふうになったのよ」
気さくな笑みを見せた。しかし、彼女はがっしりとはしていたが、太ってはいなかった。
「よく眠れた?」
昨夜はプープーというクラクションが一晩中鳴り響き、よく眠れなかった。
「マニラの交通事情は最悪よ」
とローズが言った。
「たとえばこのハイウェイ。経済の重要拠点であるはずの輸出加工区に向う道路がたった1本だけしかないの。しかもバイパスをつくろうという考えもないものだから、毎日、絶望的な渋滞に捲き込まれるわけ」
道路脇の風景は都市部からしだいに緑が多くなっていた。ジャングルのような森林の合間に屋根ごと吹き飛びそうなバラックが数多く見える。そうした小屋のなかと周辺で、無気力そうに雨を眺めているひとびとの姿があった。
「彼らは、これまでに満腹という気分を味わったことがないでしょうね」
窓の外を眺めている明希子にローズが言った。
「そうして、町で見かける大半の人間がそうなのよ」
倒壊寸前の小屋がならんでいたかと思うと、そのすぐ隣には優雅なリゾート施設のプールがあったりする。
やがて明希子らの乗ったセダンは深刻な交通渋滞に捲き込まれた。難民船のようなジプニーも、装甲車のような現金輸送車も、ビニール張りのサイドカーに家族全員を乗せたスクーターも停止した。
「“これは高速道路じゃない。世界一長い駐車場だ”みんなそう言ってるわ。アッコは、どうしてこんなたいへんな思いをして通勤しなければならないのだろうと感じているでしょうね。会社の近くに住めばよいではないかと。でも、あなたもロッポンギに住んでるわけじゃないわね。仕事以外のあらゆることが、住宅地区のほうにあるのよ。子どもの学校もそうだし。だから、きょうもこの渋滞を承知で会社に通勤するの」
「伊澄さんが、ISPCの実質的な社長はあなただと言っていました」
「ボスがそんなことを」
ローズは明るく笑ってから、
「でも、言ってみれば、わたしの仕事はトラブルね」
「トラブル?」
「イエス。ISPCで発生する、あらゆるトラブルを迅速に処理すること」
この国において、彼女がいまの地位を得るまで、どれほどの努力を要したかは想像も及ばなかった。しかし、彼女はまぎれもなくISPCが採用したローカルスタッフのなかでたったひとり株主にまで上り詰めた人間であり、女性なのだった。