kataya

第八章:削り

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喫茶アズマに行くと、まだ美咲はきていなかった。
マスターがテーブル席の傍らに立った。今日は紫の髪にラメを光らせている。
「いつもの」
と頼んだら、マスターが爪の長い節くれ立った指で拳磨の尻を思いきりつねった。
「ケンちゃんてば、ずいぶんとお見限りだったじゃないの」
顔はほほ笑んでいるが、シャドウで隈取られた目は笑っていなかった。
「ア痛タタタ……この半年、福島に行ってて、痛タタ……」
ドアに吊るされた貝の飾りがカラカラ鳴って、美咲が入ってきた。
マスターがそれを見て、拳磨の尻をさらに強くもうひとひねりする。
「アッツー」
「いらっしゃい」
美咲に向けて愛想よく声をかけると、マスターが尻から指を離し、拳磨は息を漏らした。
「拳磨君久しぶり」
「ああ」
「どうしたの蒼い顔して?」
「んなことねえよ。元気そうじゃねえか」
「元気、元気。毎日すっごく充実してるの」
美咲の顔に輝くような笑みが広がった。
「それにね……」
となにか言いかけて、傍らにいるマスターにアイスティーをレモンで頼んだ。
話の続きを聞きたかったらしいマスターは名残惜しげにカウンターへと向かう。
拳磨はその後ろ姿を見送ってから、改めて訊く。
「それに、なんだ?」
「えー、どうしようかな……」
「そっちから言い出しといて、そりゃあねえだろ。なんだよ、話してみろよ」
美咲がうつむいて頬を染めた。
「付き合ってるんだ、神無月さんと」
「ほんとか?」
頷いた。
なんてこった……
マスターがアイスティーとコーヒーを運んできた。それらをテーブルに置き終えると、またも拳磨の尻をつねり上げた。
「ヒッ」
涙がちょちょぎれた。

「おまえ、一年後にある技能五輪の全国大会に出ろ」
室田と一緒に帰ろうとしていた時だった、鬼頭に突然、そんなことを言われた。
「なんですか、それ?」
「技能五輪国際大会は二年おきに開催される技能労働者の世界競技大会だ。技能オリンピックとも呼ばれてる。その前年、つまり来年秋に開かれる国内大会が、技能五輪全国大会っちゅうわけだ」
拳磨にはわけが分からなかった。
「オリンピック? 俺に出られるはずないでしょ」
「オリンピックっちゅうたって、なにもおまえに走ったり、泳いだりせいっちゅうわけじゃない。技能五輪は、職人の腕を競う大会だ。電子技術、金属、建設・建築といった職種別にエキスパートが参加する。料理や洋裁、理容、近頃はIT関係の職種も加えられてる。そうして、機械系の中には旋盤もあるっちゅうことだ」
「旋盤の競技大会……」
そんなものがあるのか、と拳磨は驚いた。
「一年後にある旋盤日本一を競う技能五輪全国大会を勝ち抜いた者が、その翌年の国際大会に出場できるっちゅうわけだ」
「しかし、俺みたいな駆け出しがミヤさんを差し置いて……」
「おまえだから出られるんだよ、剣」
そこに宮下が加わってきた。
「技能五輪全国大会の参加資格は満二十三歳以下だ。だから、青年技能者技能競技大会とも呼ばれている。その国内大会で好成績を収めた選手から、国際大会開催年に二十二歳以下となる者が選出される。おまえ、来年で二十一だろ」
拳磨は一九九〇年の十一月二十七日生まれ。ここ吾嬬町にやってきた時には、成人式(バックレたが)こそ過ぎていたとはいえ、まだ十九歳だった。
室田が目を輝かせた。
「そのオリンピックって、どこでやるんです?」
「ドイツのライプツィヒだ」
宮下が応える。
「ライプなんとかに行けるなんて、スゲーじゃねえか剣!」
「なんなら室田、おまえも参加していいんだぞ」
鬼頭が言うと、すごすごと拳磨の後ろに隠れてしまった。
宮下も今度のことでは反対していないようだ。
「剣、おまえは毛利製作所に行ったことで、機械との距離が近づいたようだ。不良を出せない、必ず役に立たなければいけない環境の中で、旋盤の構造を理解し、がむしゃらになって生きた仕事をこなしてきた。そして、帰ってきたら仕事がめっぽう早くなっていた。大化けしてたってわけだ」
ふと、拳磨の中である考えがよぎった。
「社長、もしかして……」
「なんだ?」
「俺を毛利製作所に行かせたのは、このためだったんですか?」
鬼頭からはなんの応えも返ってこなかった。

「どうすんだよ、剣?」
「うるせえな、メシ食ってる時にくだらねえ話するな」
室田と二人で定食屋に寄っていた。
「くだらねえって言いぐさはねえだろ。社長もミヤさんもおまえの腕を認めて言ってくれてるんだぞ」
なにも応えず、拳磨は無言で生姜焼きとどんぶり飯を口に運ぶ。
その様子に室田は匙を投げた。
「せっかく人が心配してやってんのによ。もう知らねえ、勝手にしろ」

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