「小川君、いっしょにきて。これから三洋自動車に挨拶に行く」
三洋自動車の東京工場は多摩地域のS市にあった。広大な工場は、地元の経済に大いなる恩恵を与えつづけ、さながらS市は三洋自動車の城下町だった。しかし、まだ記憶に新しいブレーキパッドの早期磨耗を端緒とするリコール騒動は、市場における三洋自動車の信頼を失墜させ、販売を大幅に下落させた。それは、町全体に陰りを及ぼしているようだった。
駅前でタクシーに乗り込み、行き先を言うと、待ってましたとばかりに初老のドライバーが恨めしげに不景気話をはじめた。
工場正門から敷地内に入り、タクシーを降りると、見学者向けの資料館を併設したゲストホールから入館した。受付の女性に来意を告げると渡り廊下でつながっている事務棟の応接室に案内され、間もなく担当の坂本がやってきた。
明希子は初対面の挨拶をした。
坂本は若い。20代半ばくらいといったところか。
「今回のことでは、花丘さんにも多大なご迷惑をおかけしました。しかし、こちらもばたばたしていたものですから、なにもご連絡が差し上げられず、ご心配をおかけいたしました」
こんなとき下請け会社がどんな気持ちでいるか……明希子にも言いたいことがあったが、それを口にするわけにはいかなかった。
坂本は明希子が持参した菓子折りを申しわけなさそうに受け取った。
「でも、例の問題もようやく落ち着いて、先延ばしになっていた新型機種にもやっと着手できることになりました。ぜひ、またお力を貸していただきたいと思います」
そう言うと恐縮していた坂本がやっとかすかな笑みを見せた。
小川がすわとばかりに応じた。
「さっそくお見積もりを出させていただきます」
ドアがノックされて、50代の男性が入ってきた。
「上司の桑原です」
坂本が紹介し、明希子は桑原と名刺交換した。
〔株式会社三洋自動車工業 S工場 車両技術開発試作部コストエンジニアリング部長 桑原政行〕
「あー、花丘さん、またお願いしますよ」
桑原が鷹揚に言った。社長が明希子に代替わりしたことについては、あまり関心がないようだった。
「はい。よろしくお願いいたします」
明希子は一礼した。
「ところで、お宅にいた高柳さんね、あのひと笹森産業に移ったんだね」
はっとして明希子は桑原を見た。
すると桑原のほうはあわてたように、
「いや、挨拶に見えたんでね……高柳さんとは付き合いが長かったし……」
言いよどんだ。
「部長、これ、花丘さんから頂だいしました」
坂本が菓子折りを桑原に示した。
「うん。ああ、それはすみませんな」
桑原が明希子に向って言うと、
「じゃ、私はこれで」
そそくさと部屋を出ていった
※ この作品はフィクションであり、登場する人物、機関、団体等は、実在のものとは関係ありません